
<ミクツェマの真言>
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ミクメー ツェワェ テルチェン チェンレースィ
無縁の愛の大いなる宝の観音
ティメー ケンペー ワンポ ジャンペーヤン
汚れなき智の自在なる文殊
カンチェン ケーペー ツクギェン ツォンカパ
雪の国 チベットの学者の頭飾りであるツォンカパ
ロサン・タクペー シェプラ ソルワ テプ
ロサン・タクパ(ツォンカパ)の御足に祈願します
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頭頂にツォンカパ大師を観想し、そこから甘露が滴り落ちて、私の中にあるさまざまな罪障を浄化してくれる。この甘露になかには、十方と三世の仏や菩薩たちの力が込められている。特に仏法へのまちがった見解(邪見)や、ラマに対する前世不敬な行動や思いをいだいたという罪を取り除いて浄化し、ラマを仏として見る事ができるようになる。
ミクツェマの真言を唱え続けると、さらに甘露は落ちつづけ、自分の心に入りこんでいく。その時、人の体を持ち、仏教の修行のできる環境に生まれることがいかに貴く、類稀な機会であるかがはっきりと理解できるようになる。甘露が落ちれば落ちるほど、その理解はより深まる。
甘露が滴り落ち続ける中、この世のものは全てが無常である、私の肉体も、そしてこの宇宙ですらいつかは必ず滅びる、すべては無常であると念じる。甘露が落ちれば落ちるほど、無常の理解は深まる。その状態で禅定状態に留まる。その間、ミクツェマの真言を唱え続ける。
これまで私は、あまたの罪を犯してきたので、ひょっとして八熱地獄や八寒地獄に生まれ変わるかもしれないことを想う。その時、さらに甘露が滴り落ちてきて、地獄に落ちる罪障が浄化し尽され、心が清浄になっていくと観想する。
すべての罪を浄化し尽くしたら、地獄に生まれ変わることはない。それは、なんと嬉しいことかという喜びの心を瞑想する。
この瞑想の間、ミクツェマの真言を唱え続ける。
さらに甘露が落ちてきて、餓鬼の世界に生まれ変わる罪を浄化する。
餓鬼の世界に生まれる罪をすべて浄化したので、餓鬼の世界に生まれ変わることはないと、喜びの心を行じる。
この瞑想の間、ミクツェマの真言を唱え続ける。
甘露が滴り落ちてきて、畜生の世界に生まれ変わる罪を浄化する。
畜生の世界に生まれる罪をすべて浄化したので、畜生の世界に生まれ変わることはないと、喜びの心を行じる。
この瞑想の間、ミクツェマの真言を唱え続ける。
甘露が滴り落ち、長寿の神々の世界に生まれ変わる罪を浄化する。
神々の世界に生まれる罪を全て浄化したので、神々の世界に生まれ変わることはないと、喜びの心を行じる。
この瞑想の間、ミクツェマの真言を唱え続ける。
阿修羅の世界に生まれ変わったならば、生涯、戦い続けなければならない。阿修羅の世界に生まれ変わることがないよう、もし生まれ変わる罪を犯してきたならば、そのような罪を全て浄化してくださいと加持を請い、滴り落ちてきた甘露で、罪を浄化する。
阿修羅の世界に生まれる罪をすべて浄化したので、神々の世界に生まれ変わることはないと、喜びの心を行じる。
この瞑想の間、ミクツェマの真言を唱え続ける。
人の世界も、さまざまな苦しみに満ちている。人の世界に生まれ変わるような罪を全て浄化してくださいと加持を請う。
そして、来世、人の体を持って生まれ変わるならば、仏教を修行するにふさわしい肉体を持ち、そのような環境に生まれ変わることができますようにと加持を請う。
この瞑想の間、ミクツェマの真言を唱え続ける。
六道輪廻の世界に生まれ変わる原因は、怒り、貪り、無知の三毒である。その三毒の源は、我執、すなわち「私」という囚われである。ではその「私」なるものはどこに存在しているのだろうか?
人はよく「私の体」「私の心」「私の感覚」と気安く私という言葉を用いるが、その「私なるもの」はいったいどこにあるのだろうか? 頭にあるのだろうか? 手足にあるのだろうか? あるいは内臓にあるのだろうか?
しかし、自分の体をくまなく探してみたところで「私」というものはどこにも見いだせない。
体に「私」が見出せないなら、「私」は心にあるのだろうか?
五蘊の中の四蘊(受、想、行、識)が心の働きであるが、それらの四蘊のなかに私を見出すことができるだろうか?
受: 感受作用の中に「私」があるか? 受蘊の中には、快適なもの、不快なもの、快適でもなく不快でもないものがある。その中に「私」があるかと探してみても、「私」は見いだせない。
想: 今この瞬間の考え、一瞬前の考え、過去の考え、未来の考えなどがある。過去、現在、未来の考えの中に「私」があるかと探しても、「私」は見いだせない。
同様に「行蘊」や「識蘊」について考えても、「私」は見いだせない。最終的に、体の中にも、心の中にも、「私」はどこにもいないという結論に至る。
(それでも、苦楽を味わい、利他行をなし、仏の境地にいたる主体というものは確かにある。)
「私」という概念を捨て去ったところに、空なる境地が顕れる。その澄み渡った清浄にして輝ける空なる境地を捉える。その時、心の中の怒り、貪り、無知の全てが退けられた状態であるので、心が三毒に侵されることはない。このような状態に留まることができたならば、過去の三毒も浄化され、将来、それらが生じることもない。
自分の心を弥勒やその仏国土(兜率天)に溶け合わせて死ぬことができれば、それがすなわち空性を悟ることであり、また六道輪廻の世界に陥ることなく、弥勒の仏国土(兜率天)へ行くことになる。その状態において死ぬことが最上である。
以上の観想もミクツェマを唱えつつ行う。
自分は今、このような正しい仏教の教えに出会い、仏道に入ることができたが、六道輪廻の中にいる他の衆生や、たとえ人間として生まれても仏教の教えにめぐり会うことができない人々は、幸福を望みながらも、常に不幸の原因を作り出してしまう。そうしたものに対して、あわれみの心をもち菩提心を起こす。
ミクツェマを唱えながら、まず今生における両親がいかに恩深い存在であるかということを思い、その思いを研ぎ澄ましていく。
地獄、餓鬼、畜生、それ以外の六道輪廻の生きもの全ては、かつては自分の父や母であった。彼らが恩深い存在である点においては、今生のおける父母と同等であるという想いを強めていく。
下は地獄の世界から上は天界に至るまで、六道輪廻の中にいる生きとし生けるものたち全てが、かつては自分の母であったはずである。母であったからには、私のために随分と苦労を重ね、私を養うために罪障を積むことすら行ってきたと、ミクツェマの真言を唱えつつ衆生から受けた恩を思う。
思うだけではものたりない、私は是非とも彼らに恩返しをしよう、彼らのために役に立ってあげようという思いをミクツェマの真言を唱えつつ強めていく。
母なる衆生が幸福と幸福の因を得ることができるようにと願う(ミクツェマの真言を唱える)。
煩悩により深い苦しみを背負っている全ての生きものに対して、深いあわれみの心を起こし、苦しみと苦しみの因から解放されるようにとミクツェマを唱えつつ願う。
ミクツェマの真言を唱えつつ、生きとし生けるものが完全なる幸せな境地を得ることができるように、心の中にある怒り、貪り、無知を全て浄化して、ひたすら利他行を為そうと決心する。
もし、私が一切智の境地にたどり着いたならば、生きとし生けるものが、どのような苦しみにあっても、それらを全て見てとり、苦しみを必ず取りのぞくことができる。
医者は、患者にどのような薬を与えれば病気を癒すことができるかを知っているように、仏は、生きとし生けるものの病、つまりどのような煩悩があるかを見てとり、どうすれば煩悩を癒し、清めることができるかを知っている。
それゆえ、私は生き物を救うために必ず仏の境地に至ろう、全ての生きものを幸福な状態に導き、苦しみを取り除こうと決意し、ミクツェマを唱えつつ、その心をどんどん強めていく。
以上の1)から6)にいたる段階を経て、七段階目で菩提心を起こし、それをさらにゆるぎない菩提心へと変えていく。
菩提心を起こしたならば、それをさらに増やし、向上させ、決して衰えることがないよう六波羅蜜行を行う。
生きとし生けるものが欲するもの(例えば、仏法など)を薬の如く与えることができる(ミクツェマを唱える)。
戒律を守る。まず十善戒を守ることが肝心である。十善戒を守らなければ心の中の罪障を浄化することはできない。さらに自分の利益のために、戒律を守るのではなく、衆生のために利他行を為すという思いを持って、戒律を守っていくようにする。自分こそ大切という思いは捨てて、利他の心で戒を守ることが大切であることを念じつつ、ミクツェマを唱える。
他人からいかに酷い目にあわされ、罵倒されても、怒りの心を起こすことなく、逆に「ああ、なんてかわいそうなのだ、この人の心は煩悩に犯されている。」とあわれみの心を抱き、忍耐の心を養うようにする。自分は相手に腹を立てる代わりに、仏教を修行することで、この人の煩悩を最終的に鎮めようと誓う。私にあだなす人がいても、腹をたてて相手に復讐を想う代わりに、あわれみの心をいだき、さらに利他の心を養う。ひどく重い病気にかかっている母親に、腹を立てることなどできないように、煩悩という病にかかっている衆生に腹など立てることなく、忍耐を行じる。他人がいかに自分に悪いことをなそうと、決して腹など立てまいと決意し、ミクツェマを唱えてその決意を鮮明なものにしていく。
生きとし生けるものを苦しみから解き放ち、幸福な境地に至らせるためには、どんなに苦労も厭うまい。そのために、今生、そして来世においても、心の中にあるさまざまな煩悩を浄化し、絶対に努力を惜しまず、ひたすら精進しようと思う。私は怒り、貪り、無知の三毒を完全に断ち切るまで、菩提心をおこし、持戒、忍耐といった六波羅蜜行に精進すると決意し、ミクツェマを唱えて、その決意を鮮明なものにしていく。
心が静まり、清浄にして澄明な状態にとどまるのが禅定である。それは言い変えれば、止観の「止」にあたり、心を一点に静めることである。生起次第の瞑想法は、「止」の瞑想法が中心となる。
智慧とは禅定(止)状態にある心の欠点を観察する力(観)である。禅定状態に留まっていると、心の中にさまざまな雑念や、三毒(怒り、貪り、無知)が湧いてくる。それらを観とって対処する力が智慧(あるいは観)である。
大いなる祈願を行う。大いなる祈願とは、①一切の衆生の苦しみを全て取り除くまでは、仏の境地には至らない、②病人からは病を、寿命にさわりのあるものからはその障りを取り除けるようになるまでは、仏の境地には至らない、③この私の姿を見ただけで、衆生たちが苦しみを取り除けるようになるまでは、仏の境地には至らないといった祈願である。そして私だけなく、私と同様の全ての生きとし生けるものが仏の境地に至るよう、また、そのために力を尽すことができるようにと祈る。
最後に、弥勒の仏国土(兜率天)を念じ、また頭の上に観想していたツォンカパ大師も下に降りてきて私の中に入り、私の心、弥勒の仏国土(兜率天)、ツォンカパ大師の三つが完全に一体になった状態において、禅定に留まる。その時、私の心は弥勒の仏国土であり、また弥勒そのものになっている。そして、自分は仏の子、すなわち菩薩になっていると観想する。
最後に廻向を唱える。
<菩提心を起こすためのお経>
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ンゲージュン サムパ リンポチェ
宝のごとき出離(輪廻から脱出しようという決意)の思いよ
マ シェ パ ナム シェー ジュルチ
まだ生じていないものには、それが生じますように
シェー パ ニャムパ メーパタン
生じたならば、衰えることなきよう
コンネー コンドゥ ペーワル ショー
さらにさらに増していきますよう
トンニー タワ リンポチェ
宝のごとき空性の見解よ
マ シェ パ ナム シェー ジュルチ
まだ生じていないものには、それが生じますように
シェー パ ニャムパ メーパタン
生じたならば、衰えることなきよう
コンネー コンドゥ ペーワル ショー
さらにさらに増していきますよう
シャンチャプ セムチョー リンポチェ
宝のごとき菩提心よ
マ シェ パ ナム シェー ジュルチ
まだ生じていないものには、(菩提心)が生じますように
シェー パ ニャムパ メーパタン
生じたならば、衰えることなきよう
コンネー コンドゥ ペーワル ショー
さらにさらに増していきますよう
*(最後の四行は三回くりかえす)*
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