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四聖諦(四つの聖なる真理)

四聖諦は、お釈迦様が悟りを開かれて最初に説かれた教えで、仏教の最も大切な教えの一つです。この四聖諦の教えの中に、仏教の教えの真髄が全て集約されており、それ以外に仏の教えは無いと言っても過言ではありません。帰依の対象である「仏」、その仏が説かれた教え、それがすなわち「法(仏法)」であり、仏法とは、この四聖諦の中の「道諦(修行の道にまつわる真理)」でもあります。この教えは、インドのサールナートで、お釈迦様が悟りを開かれてから49日後に、そこにいた5人の弟子に対して説かれました。なぜ、それだけの長い間、この教えを説かなかったかと言うと、お釈迦様ご自身、この悟りの内容は深遠にして広大なものであるから、どのような人に説いたとしても理解できないであろう、それならばいっそのこと口を噤んでいた方がよいであろうと思われたからでした。その時、いろいろな神々が、千の輻のある金の法輪等をお釈迦様に贈り、「どうかあなたの悟られた内容を人々に示し、法を説いてください。」と何度も何度もお願いしました。それでお釈迦様は、このように神々が望むのなら、教えを説くべき機縁があるのだと思われ、ようやく口を開かれました。

お釈迦様の前世譚であるジャータカ物語には、次のようなエピソードが書かれています。お釈迦様は、前世で王子様であった時、雌の虎に逢いました。雌の虎には子供がいましたが餌を得られず、とても痩せ衰えていました。それを見た王子様は「なんてかわいそうなのだろう」という慈悲の気持ちを起こし、自分の肉を裂いて、雌の虎に与えました。その時、お釈迦様は、将来、私が仏になった暁には、生きとし生けるものの心の苦しみを全て取り除いてあげようという誓いを立てられました。そして、この雌の虎や子供たちの生まれ変わりが、お釈迦様の最初の教えを聞いた5人の弟子たちとなったのだそうです。そのようにこの5人は、前世でお釈迦様に助けられた生きものの生まれ変わりでした。しかし、その人たちは最初、お釈迦様に敵対するような行者で、お釈迦様の言っていることなどは信頼できない、議論を持ちかけて論破してやろうなどという思いを持ち、たとえお釈迦様が近づいて来ても決して立ち上がるまいとさえ思っていました。しかし、実際にお釈迦様が近づいてきたら、自ずと立ち上がって礼拝してしまい、そのまま弟子となったという話があります。元々、その弟子たちとお釈迦様は、前世において繋がりがあったのです。

お釈迦様が説いた聖なる真理とは、1)苦にまつわる真理<苦諦>、2)苦の源/原因にまつわる真理<集諦>、3)涅槃の境地にまつわる真理<滅諦>、4)修行の道にまつわる真理<道諦>の四つです。なぜこれを四聖諦というかというと、最も優れた学者たちが、この真理を吟味した結果、この真理こそが誠であると確認されたからです。この世は苦しみそのものであるという真理が苦諦であり、その苦しみは私たちの心の中にある無明とその根本にある三毒(怒り、貪り、無知という煩悩)から生じたものが集諦であります。これらの無明や煩悩を取り除くための方便がすなわち道諦であり、修行を積むことで、空性の正しい見解を悟り、菩提心を起こせば起こすほど、三毒を取り除くことができ、結果として、苦しみから解き放たれることができるというのが滅諦です。この世界には戦争が絶えませんが、いくら戦争をしたとしても、それが尽きることはありません。しかし、私たちがもし、煩悩というものに戦いを挑み、煩悩を断ち切ることができたならば、それ以上、煩悩が襲ってくることはありません。病人ということを例にあげた場合、まず自分が病気であるということを認識し<苦諦>、なぜ病気になったかをさぐって<集諦>、その原因を取り除くよう努めなくてはなりません。そのためには、病気の原因を無くすための方法を知り、実際に薬を飲んだり治療すること<道諦>によって、最終的に病気から解放される<滅諦>という段階を踏むのと同様です。つまり、私たちはまず、苦しみという病の中に在ることを認識しなければなりません<苦諦>。次に苦しみという病の原因<集諦>が何かということを追及し、その原因をわかったならば、それを放棄する術、つまり病気が治る<滅諦>ための方法を知って実践しなければなりません<道諦>。

<苦諦(苦しみにまつわる真理)>

この輪廻の世界は、苦しみそのものであります。例えば、私たちの体を考えた場合、この肉体は無常なものであり、苦しみそのものから出来上がっていて、実体を欠いているという特性があるにもかかわらず、私たちは肉体というものに執着しがちです。

苦しみを考察する際、この世は無常であるという真実を直視しなければなりません。無常を大別すると、次の二種類に分けられます。一つは粗大な無常で、目に見てわかるような変化、もう一つは目で見てもわからないような微細な変化です。微細な無常を布に譬えてみれば、今は新品の布であったとしても、このまま100年、200年と放置したなら、今の状態を保つことはできず、毎日、微妙に変化しながら、長い月日を経てボロボロになってしまいます。布と同様に、私たちの肉体も、今、見た眼にはわからないとしても、一瞬一瞬変化し続けています。生きているものはいつかは必ず死ぬというのが粗大な無常で、この肉体が母の子宮に宿り、生まれ出て死ぬに至るまで、見た眼にははっきりととらえられないとしても、一刻一刻老いていくというのが微細な無常です。目的地を目指して一歩一歩進んでいるが如く、私たちは一瞬一瞬、死に近づいているのです。私たちは毎瞬、確実に老化しているのだということを受けいれ、一刻一刻、死に向かっているということを常に思い起こすことが大切です。呼吸に意識を向けると、一回、呼吸するたびに、私たちは死に近づき、心臓の鼓動に耳を傾ければ、心臓が一回脈打つたびに、あの世に近づいているのです。そのように、いつも無常ということを思い起こしてください。無常は、仏教の大切な概念の一つであり、実感すべきことの一つです。死んだらそれでお終いということであれば、この人生、やりたい放題でもよいわけですが、死んだら必ず来世が訪れ、もし、今生で良き行いを積まなければ、その結果として来世、苦しまなくてはならないという報いを受けることになるのです。

苦しみを大別すると、「苦」には、1)苦苦、2)壊苦(えく)、3)行苦という三種類の苦しみがあります。

  1. 苦苦
    苦苦とは、私たちが一番認知しやすいような苦しみです。例えば、自分の欲望が満たされない苦しみ、欲望を満たそうと思ったら、それを邪魔される苦しみ、病気等、世間一般で言われる苦しみを指します。
  2. 壊苦
    壊苦とは、変化の苦しみのことです。短絡的な幸福や楽しみは一時的なもので、苦に変じてしまうことがよくあります。なぜそれが起こるかといえば、そこで体験している幸福は真の幸福ではなく、煩悩で汚れた表面的な幸福だからです。例えば、結婚したいと思い、結婚相手を得たとします。その時は、とても嬉しいわけですが、その嬉しさは一時のものにすぎず、何かをきっかけに、あっという間に苦しみに変化してしまうことがありえるわけです。結婚相手が不実であるかもしれないし、そのあげくに離婚してしまうかもしれない、あるいは、その人が病気にかかって死んでしまうかもしれないというように、今、幸福に思えることも、苦しみに変わってしまうというのが変化の苦しみです。なぜそのようなことになってしまうかと言うと、一見それが幸福に思えたとしても、それは表面上の見せかけの幸福で、その本質は苦そのものだからです。また、別の例をあげれば、囚人が食事時間にご飯を食べて幸福を味わったとしても、その人は刑務所に入れられ自由もないわけですから、それは束の間の幸せにしかすぎません。その囚人が刑務所から解放されたとしたら、幸福な状態と言えるかもしれませんが、刑務所にいて、一時の飢えが満たされたとしても、それは本当の幸福ではありません。私たちがこの世で味わう幸福も、それと同じようなものです。人間関係も同様で、今日、とても仲の良い人がいて、この人が好きだ、この人といると幸せだなどと思ったとしても、関係性が変わると、たちまち、その人が敵になり、不幸をもたらす存在になるかもしれません。一見、幸福に見えることでも、その大元を探ってみると、その中には既に苦を内包しているのです。たとえ自分は、清潔で良い肉体を持っていると思ったとしても、肉体は日々老いて、いつかは滅びていくものです。一見、快適で幸福に見えるものであっても、表面に捉われず、その源や中核には苦が潜んでいることをよく理解しなくてはなりません。
  3. 行苦
    行苦とは、人間の根源的存在にまつわる苦しみです。一見、苦とは思えない状態であっても、その中に既に内包されている苦しみを行苦と言います。例えば、私がここに座っていることは、快適でもなく苦しくもありませんが、それでもなおかつ、そこに苦があります。そのように、苦しみであるとはわからない苦しみが行苦です。天界の住人は、苦苦を味わうことはあまりありません。また、極寒地獄や焦熱地獄などの住人は、ずっと寒かったり熱かったりするので、変化の苦しみである壊苦は味わいません。しかし行苦は、六道輪廻の世界、つまり天界から地獄の世界に至るまで、どこにも隈なく浸透しているため、捕えがたい苦しみです。それはまだ苦しみであると自覚するまでには表面化しておらず、具体的な形になって現れてはいませんが、既に苦しみの因としては存在しており、外に苦しみとなって現れる可能性がある苦しみのことです。例えば、私たちの体は、たとえ今、病気ではないとしても、病気の因子を内包しており、表には現れていないだけで、発病する可能性を持っているように、行苦とは、苦しみとなりうる可能性や潜在性のようなものです。もし私たちが、苦しみの因にまつわる真理を悟り、全ての苦しみの因を断ち切ったならば、この世の一切の苦しみから解き放たれます。何が起こっても、怒りも貪りも起きないという状態に達したら、行苦からも解放されたということになります。この行苦からも解放されることがすなわち解脱で、それにより真に幸福な状態がもたらされます。

<集諦(苦しみの源にまつわる真理)>

この世は苦しみであるというのが、四聖諦の一番目の真理の「苦諦」で、苦しみには原因があるというのが、二番目の真理の「集諦」です。この「集諦」は、さらに1)因、2)源、3)副次的要因(縁)・条件、4)無数に生じるという4つの段階に分かれます。

私たちの苦しみの原因は我執です。我執に始まって、怒り、貪り、無知という三大煩悩が生じ、三大煩悩から、さらに無数の小さな煩悩が生じてきます。それらについて細かく説明をする時間はありませんが、煩悩と共に生じる「心所(心の働き)」について理解しておくと役立ちます。「心所」には、悪い働きと、良い働きがあり、アビダルマ等に詳しく述べられていますので、それらの経典を読んでみると良いでしょう。さまざまな小さな煩悩の大元は、怒り、貪り、無知の三大煩悩に集約されます。「因」とは、何かが生じた時、それが生じた起源のことです。この源から、数多の苦しみが次から次へと生じてきます。もし、結果としての苦しみを取り除きたければ、その大元の因を断ち切らなければなりません。また、怒り、貪り、無知の三大煩悩は、苦しみが生じる主なる因であるだけではなく、既に生じてしまっている苦しみをさらに増やしていくものでもあります。つまり、それらの煩悩は、「因」であると同時に、「副次的要因(縁)」、つまり、苦をもたらす「条件」にもなりうるわけです。例えば、ある物が欲しいという欲望に駆り立てられるままに、それを持って逃げてしまうなどの悪行を為すと、さらなる苦しみが生じ、それらが連鎖的に波及していきます。そのように、苦しみが苦しみを呼び、1)因 → 2)源 → 3)副次的要因(縁)・条件 → 4)無数に生じるというように、怒り、貪り、無知に起因して、苦しみが増し、不幸が連鎖的に生じてきます。例えば、両親に対して怒りの心を起こしたら、怒りの心が生じただけでも苦痛であるのに、さらに腹を立てて、両親を殺してしまおうなど思うかもしれない。あるいは、夫婦の仲がとても悪くなってしまって、お互いが相手に対して怒りの心を起こし、ついには自殺してしまうかもしれないというように、心の中に生じた怒りや貪りなどの煩悩によって、行動が引き起こされます。こうして、煩悩がさらなる煩悩を呼び起こし、苦しみがさらなる苦しみを呼ぶというように、原因が結果を呼び、その結果がまた原因となって結果を呼ぶというように連なっていきます。そのように、この世における全ての苦しみや悪い行為は、怒りや貪りから生じるのです。つまり、苦の源には我執があり、我執から煩悩が生じ、それらによってさらに苦しみが増していくというのが「<集諦>苦しみの源にまつわる真理」です。

しかし、もし煩悩をコントロールできるようになれば、悪行を為すこともなくなる訳ですから、自分の心をコントロールできるようになることがとても大切です。さらに、あわれみの心や、生きとし生けるものを救おうという心、そして利他心などの善き心を行じていけば、利己心が無くなるがゆえに、他の生きもののために命を捨ててさえも喜びを感じることができるようにさえなります。お釈迦様の前世譚、ジャータカ物語の中で、お釈迦様は、餓えた雌の母虎のために自分の肉を裂いて与えても、悔やむどころか大きな喜びを感じました。心の苦しみは、心をコントロールし、良き心を育んでいくことで、幸せや喜びへと変換させていくことができるのです。

<道諦(道にまつわる真理)>

お釈迦様は、四聖諦の「道諦(修行にまつわる真理)」を修得したがゆえに、仏の境地に至られました。お釈迦様の後を追う者たちは、お釈迦様と同じような修行の道を歩んでいかなければなりません。彼岸に渡りたいと願っている私たちは、既に彼岸に渡るための船を持っています。後は、その船を操縦する方法を知ることです。操縦方法を修得するには、ラマの教えに耳を傾け、教えについて考えを巡らし、教え実践しなければなりません。

それでは、苦の源を対治するにはどのようにすればよいかというのが、次の段階の「道諦(道にまつわる真理)」です。お釈迦様は、その対処法として、「空性」ということを説かれました。「空性」を行じることによって、最終的に解脱の境地に至ることができます。修行の道の中で、最も大切な「空性を悟った智慧」を得るには、まず「私」とか「我」というものが、はたして存在するのかしないのかということをよくよく検証してみなければなりません。それについて熟考し、無我を悟ったならば、我執も存在し得なくなります。そうなれば、たとえ人が誹謗・中傷したとしても、それによって影響されることもなくなりますし、何かに対して欲望を抱くこともなくなり、全てから解き放たれた境地に至るはずです。「空性」や「リクパ」、「真の菩提心」、「出離=輪廻から解脱しようという決意」、これら全ては「道にまつわる真理」に付随しています。「道諦」の「道」とは、究極の幸せな境地に至るための修行の道のことです。煩悩に侵された人というのは、例えてみれば、目が見えず、右も左もわからない状態にいる盲者のようなものです。しかし、この道に従って修行することで、ある時、その無明の闇が晴れます。この無明の闇が晴れたことを「リクパ」と言います。「出離心」とは、自分は今、苦しみの中にあるので、何が何でも、この苦しみから解き放たれなければならないという決心のことです。輪廻の世界から離れるという強い決意を抱き、「空性」を行じ、「私」というものを検分して、「私」というものは無いという境地に達することで、同時に、怒りや貪りなどの煩悩も消滅します。さらに、生きとし生けるものを救おうという「菩提心」を起こすことが、すなわち「道諦」です。

日々日頃の私たちというのは煩悩に満ち満ちています。例えば、名声を得た人や、自分より偉い人、恵まれた人などを見ると嫉妬心が生じたり、人が自分の悪口を言うと怒りが湧き起ってくるなど、ありとあらゆる煩悩の中で、心が錯乱した状態にあります。しかし、仏教の理解を深め、修行を続けていくことで、それまでとは違った見方で世の中が観えるようになります。以前は、この人は嫌いだ、この人は自分に親切にしてくれるから好きだなどといった表面的な思いしか持てなかったものが、仏教を学ぶことで、この人は過去世で父や母であったかもしれないと思うようになります。また、たとえ今のこの瞬間、ある人が私に対して不快なことをしたとしても、腹を立てることもなく、私は前世でこの人に対して悪いことをして、今生でその報いを受けているのかもしれないと思えるようになっていきます。あるいは、他人がとても恵まれた環境にあったとしたら、この人は前世において沢山福徳を積んだ人なのだと見なすことができるようにもなってきます。そしてしだいに、怒りや貪りなどの煩悩に苛まれることが無くなり、心がとてもくつろいだ状態に変化していきます。苦しみの源には、今生だけでなく、前世、前々世といった無始の過去から為してきたさまざまな悪業、煩悩、争いごとなどによる、数限りない苦しみの原因が蓄積されています。例えば最近は、エイズなどの病に侵されることを恐れたりしますが、実は私たちはもう既に煩悩という病にかかっているのです。煩悩という病の根はとても深く、生きとし生けるもの全てに浸透している恐るべき病なのです。もし、重い病にかかったならば、薬も一種類でなく、いろいろな薬を飲まなければならないように、この煩悩という難病を治すためには、いろいろな修行方法を用い、さまざまなラマから教えを受けなければなりません。また、薬は短期間でなく、長い間、飲み続けなければならないように、煩悩という病を治療するには、長時間かけて修行をしなければならないのです。要約すると、修行の道で必須なことは、因果とカルマを知ること、空性を悟った智慧を得ること、そして菩提心を育むことです。空性を悟った智慧と菩提心の二つは、必ず両方兼ね備わっていなければならず、どちらかが欠けても修行にはなりません。

<滅諦(涅槃の境地にまつわる真理)>

空性の智慧を得て、我執や煩悩の全てから解放されたならば、涅槃の境地に至ることができます。これがすなわち四聖諦の「滅諦(涅槃の境地にまつわる真理)」を悟ったことになります。滅諦にも、1)断ち切ること、2)寂静なる境地、3)清浄で何一つ汚れの無い境地、4)確信を得ること、という四つの段階があります。1)断ち切ることとは、輪廻の世界におけるさまざまな苦しみを家の中から全て追い出して、門をぱたっと閉じてしまったような状態です。2)寂静なる境地とは、混乱状態を全て外に押し出し、家の中がシーンと静まりかえったような状態です。その状態がさらに深まるのが、3)清浄で何一つ汚れの無い境地です。最後の4)確信を得ることとは、これまで苦しみと闘ってきて、その苦しみを全て断ち切った時、完全にそこから解放されて、「は~」と息を吐き出して安堵するかのような状態のことです。

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