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帰依の瞑想法

<帰依とは>

仏教徒であるかどうかの違いは、帰依の誓いをたてているかどうかにかかっています。僧尼であるかどうかは、僧・尼の戒を受けているかどうかによって区別され、菩薩の道を修行する者であるかどうかは、菩薩の戒を受けているかどうかによります。密教の修行者であるかどうかは、ラマからラマに伝えられてきた密教を修行するにふさわしい密教の戒や灌頂やルン(口伝)などの伝授を受けているかどうかにかかっています。また僧侶になる前に、まず帰依の誓いが必要です。また、菩提心の修行をするにも帰依の誓いを立てていなくてはなりませんし、密教の戒(三昧耶戒)を受けるには、その前に帰依の誓いを立て、菩薩戒を受けなければなりません。特に密教の修行をするには、血脈のラマからルンを受けなければ、いくら密教の修行をしたとしても修行そのものがうまくいきません。つまり密教の修行をするには、その前に菩薩戒を受けなければなりませんし、菩薩戒を受けるにも、僧侶になるにも、まずその前に帰依の誓いを立てなければなりません。しかし、僧侶の戒を受けなかったとしても、帰依の誓いを立てることもできますし、菩薩戒や密教のルンを受けることはできます。

帰依というのは、とても大切です。全ての仏教の良き特性の源、そして仏教の教えの基礎となるものが帰依です。帰依とは何なのか、そして何のために帰依を行うのかなどについて、よく理解しておくことが重要です。帰依の対象は、仏、法、僧の三宝です。帰依の一番の要は、仏法僧に対して信仰心を持ち、仏法僧を拠り所とすることによって、自分の心にある煩悩の汚れを、浄化できると信じることです。

仏とは、一般的には釈迦牟尼仏を指します。また、それ以外の仏たち、例えば阿弥陀仏やターラー、観音菩薩、文殊菩薩などや、ツォンカパ大師など仏の境地に達せられた方々をも指します。しかし、未だ輪廻の中に留まっているような世俗的な神様に帰依してはいけません。

法(仏法)とは、仏が説かれた教えで、菩提心、あわれみの心、空性といったようなもの全てを指します。また、修行の道や、菩薩たちが実践している修行方法を、法と呼ぶこともあります。

僧(サンガ)とは、実際、修行の道に入り、空性の見解を得て、心の中に菩提心やあわれみの心が生じた人のことを言います。

要約して言えば、釈迦牟尼仏が仏であり、釈迦牟尼仏が説かれた教えが仏法であり、その教えに従う者たちが僧(サンガ)です。仏の説かれたあわれみの心や菩提心、空性を学び、それを実践すれば、自分の心に巣食っている煩悩の汚れを浄化することができると信心することが、すなわち帰依であると言うことができます。

その昔、ラサに、ドゥクパ・クンレーというボロボロの身なりをした風狂の人がいました。ドゥクパ・クンレーがラサの一番聖地の中心部であるチョカン寺で五体投地をしながら、仏に対して、「その昔、私とあなたはおなじ衆生だったのに、あなたは今や悟りの境地、私は未だに輪廻の身、こうやって私はあなたに五体投地をしている。」という歌を唄っていたそうです。かつては、お釈迦様も、私たち生きとし生けるものと全く等しい存在で、私たちと同じように、六道輪廻の世界を廻り続けていていました。ある時には畜生の世界に、ある時には地獄の世界に、ある時には餓鬼の世界にと輪廻転生を繰り返していました。しかし、輪廻転生を繰り返すうちに、あわれみの心や菩提心、空性の見解を悟られ、生起次第、究竟次第といった修行法を行じられて菩薩の道に入り、菩薩からさらに高い道に入り、最終的に仏の境地に至られたのです。

私たちは、当然、お釈迦様に帰依すべきですが、本当に帰依すべき対象は、お釈迦様が説かれたあわれみの心、菩提心、そして空性の見解といった「仏法」です。お釈迦様は、単に口先だけで仏法を説いたのではなく、お釈迦様ご自身の修行や瞑想体験から得られたことを、教えとして説かれたのです。

「僧(サンガ)」とは修行者たちの集まりで、仏教修行の道を共に歩む友でもあります。一般的に「僧」は、お坊さんを意味しますが、必ずしもお坊さん、あるいは僧院長といった存在でなくてもよく、実際に修行を行い、真に菩提心やあわれみの心を起こした人であるならば、僧(サンガ)と呼ぶにふさわしい存在といえます。なぜ修行者たちの友であるサンガに帰依するかといえば、その人たちは既に仏に帰依し、仏の説かれた教えを実践することによって、それなりの法力を持っている人たちで、それらの人たちに帰依したならば、あなた方の修行が法力によってさらに進むからです。

<ラマとは>

帰依文を唱える際、三宝に加え、最初に「ナモ・グルベ」といってラマに帰依します。その理由は、実際に私たちを仏法に導いてくださる存在がラマであり、ラマが私たちに教えを説いてくださらなければ、私たちは教えの道に入ることができないからです。チベットには仏教博士(ゲシェー)や偉い先生がたくさんいらっしゃいますが、チベットにおいてのラマは特別の意味を持っています。ラマは、本当の意味での菩提心やあわれみの心を持ち、自分と前世でカルマの縁があった存在です。そして、そのラマの教えに従って修行した時に、何か悟りの体験といったものを得ることができたような方を、自分の根本のラマと呼ぶのです。そのラマは、自分にとっては、とてつもなく恩深い存在です。私自身は、仏教博士(ゲシェー)でもなく、お寺の僧院長でもありません。でも、あなた方が、私の説いた教えによって修行してみて、その教えが役に立ち、あなた方が私に対して信仰心を持つのであれば、私のことをラマと呼んでもかまいません。説法に耳を傾ければ、教えが心に浸みこみ、おそわった修行を実践すると、あわれみの心や菩提心、空性の理解が促進される、そのような方をラマと思ってかまいません。そうした方に信仰心を抱けば、大きな加持を得ることができるはずです。どういう方がラマとしてふさわしいかと言えば、経典に通じ、自分より仏教の知識を持っているはもちろんのこと、思いやりの心に溢れ、あわれみの心と菩提心に満ちている方です。ラマを選ぶというのは、とても大切なことです。もし、あわれみの心も菩提心もないラマを選んでしまったら、あなたの悟りへの道は閉ざされてしまいます。自分の修行をどんどん引き上げてくれるような方をラマとして選ぶことが大切です。例えば、ラマが、「あなたは私の弟子だから、他のラマのところに教えを聞きに行ってはいけない。」とか「私はゲルク派のラマであるから、あなたはゲルク派の弟子として、他の宗派、例えばニンマ派のラマのところに教えを聞きに行ってはいけない。」などというようなラマであったら、そのラマは仏法を本当には理解していないし、人の役に立とうという利他の心を持ち合わせていないことになります。ですから、そういったラマに頼ってはいけません。私はゲルク派のラマですが、他の宗派も尊重しています。私が仏教の修行をし始めた若い頃は、ゲルク派に頭が凝り固まっていて、他の宗派の経典は見るだけでもけしからんと思ったのですが、実際、洞窟などで瞑想修行をして、他の宗派の経典などを見た時、他の宗派も、まったく同じ事を言っており、同じような境地を目指しているのだと理解しました。前述したとおり、ラマとの関係というのは、前世のカルマというものに大きく関わっています。しかしながら、ラマに頼ってだけいれば良いというものではありません。ミラレパを例にあげれば、ミラレパは確かにすばらしいラマがいらして教えを受けましたが、ミラレパ自身がものすごく努力をして、仏の境地に至るまで修行を行ったのです。ラマに頼ることも大切ですが、それ以上に自分自身が精進しなくてはなりません。私はゲルク派の修行を行っていますが、他の宗派のラマの話を聞きに行ってはいけないなどということは決して申しません。もし、教えがあなた方の心の苦しみを取り除くのに役立つのならば、どのラマの教えを聞きに行ってもよいし、その教えを実践してもよいのです。例えば、私の教えを聞いて実践してみたら役に立たなくて、他のラマのところへ行って教えを聞いて実践したら、すごく役に立つかもしれない。逆に他のラマのところでいくら教えを受けても全然役に立たなかったけれど、私のところに来て教えを受けたら、役に立つかもしれない。そういうことが起きるというのは、それぞれのカルマです。どの宗派であろうとも、ラマを選ぶ際は、よくよく検分し、ラマとしてふさわしいかを入念に観察しなければなりません。すばらしいラマもいるし、そうでないラマ、中には偽ラマもいます。お坊さんも同様で、すばらしいお坊さんもいれば、どうしようもないお坊さんもいます。ラマを選ぶ際は、自分のラマとしてふさわしい人物かどうかを慎重に観察し、充分検分した上で、自分のラマであると受け入れてください。ラマがすばらしければ、弟子たちもすばらしいと見なされるし、ラマが碌でもなければ弟子たちも碌でもないと思われるでしょう。ラマを選ぶ際には、決して外見にとらわれたり、評判やその話しぶりにごまかされてはなりません。本当に思いやりの心があるかどうか、口先だけの仏教ではなく、本当に修行しているかどうかを良く見てください。皆様は、前世において仏教との良きご縁があり、その功徳によって、ここにいらしたはずです。せっかくこうして仏教とご縁があったのですから、是非とも良いラマを先生として選んでください。そう申し上げても、私こそが良いラマですとか、私のことを信仰しなさいと言っているのではありません。その昔、インドでは、ある人を自分のラマと受け入れるかどうか、またその人がラマの素質を持っているかを見極めるまでに3~6年といった長い時間を費やしたそうです。ラマを慎重に選ぶことの大切さについては、ツォンカパ大師も多くのことを書かれていますし、随分と祈願をされています。これまで、ラマについて述べてきたように、ラマはとても大切な存在ですので、ラマを選ぶことについて、よくよく考えてみてください。

<帰依の分類>

帰依の因と果

帰依にも、因(原因)なる帰依と、果(結果)なる帰依があります。

因なる帰依とは、自分自身が今、苦しみの中にあり、その苦しみから救ってくれるのは、仏、法、僧しかないと、三宝に対して信仰心を抱くことです。とても大切なことですが、帰依の本質は、信仰に基づいて実際に修行をすることです。お釈迦様は悟られた存在で、今、仏と私たちはかけ離れていますが、かつてはお釈迦様も私たちと同じ存在でした。因なる帰依とは、そのお釈迦様が私たちに示してくださる仏の教えを受け入れ、仏が示された修行の道を歩み、結果として仏の境地に至ることができるという信仰心を抱くことです。

果なる帰依とは、私たちが仏の教えを実践し、菩提心を起こすなどの修行の階梯を踏んで、最終的に仏の境地に至ることです。

帰依の心構え

帰依は、心構えによって、1)小さな器の人の帰依、2)中程度の器の人の帰依、3)大きな器の人の帰依という三つの種類に分けられます。また修行方法も、器の大きさによって異なります。
小さな器を持って帰依をすれば、そのとおりの結果が得られ、中程度の器を持って帰依をすれば得られる結果も中程度で、最も大きな心構えを持って帰依をすれば最も大きな結果が得られます。

1)小さな器の人の帰依
最も小さな器の人の帰依とは、自分が今生で幸せになりたい、死んでからも地獄や餓鬼などの悪い世界に落ちたくないという思いを持って帰依をすることです。もし、来世、天界や人の世界など良いところに生まれ変わりたい、そのためには今生において徳を積んでおこう、あるいは、今生でなるべく幸せに暮らしたいから悪いことはしまいと思って修行するのであれば、それは最も小さな器の人の心構えです。

2)中程度の器の人の帰依
中程度の器の人の帰依とは、この輪廻の世界は苦しみそのものだから、この輪廻の世界から解き放たれたい、つまり阿羅漢の境地を得たいという思いを持って帰依をすることです。もし、自分はどこの場所に生まれようとも、この輪廻の世界に生まれる限り苦しみから逃れることはできず、この輪廻の世界は苦しみそのものから成り立っているから、この輪廻の世界から解き放たれようという願いを持って修行するのであれば、中程度の器を持って帰依したことになります。中程度の器の心構えの人は、自分の幸福のみを考えています。

3)大きな器の人の帰依
最も大きな器の人の帰依とは、生きとし生けるものを、この苦しみの輪廻の世界から解き放ちたい、そのためには一切智の境地に至ろうという思いを持って帰依をすることです。もし、自分の幸福のみを考えるにとどまらず、他の生きとし生けるものの幸せも考えて、彼らも苦しみから解き放ってあげたいという大いなるあわれみの心を起こし、その心構えに従って修行することができたならば、最も大きな器を持って修行する人になります。密教の修行、つまり生起次第や究竟次第の修行、そして今生において速やかに仏の境地に至ることができる修行というのは全て、最も大きな器を持った人のための修行方法に属します。生起次第や究竟次第の修行法というのは、それなりの器を持った人のみにしか教えることはできず、密教の中でもとても高度な修行法に属しています。またこれらは、能力が優れた人のみができる修行法であり、貪りなどの煩悩の力を利用して仏の境地に至るための特殊な修行法です。自分の煩悩をコントロールできるようになった人でないと、密教の修行はできません。密教と顕教は、相反するものではなく、また、どちらかが上というわけでもなく、互いに関連づけ合いながら修行していかなければなりません。

この世は苦しみそのものであり、苦しみから解き放たれるための方便が仏の教えであり、実際、帰依等の瞑想を行って修行することによって仏の境地に至ることができます。かつてこの世に生まれた仏もこの修行法で仏の境地に至ることができ、将来、この世に生じる仏も、この修行法によってその境地に至ることができるはずです。そのような意味でも帰依はとても大切です。

その昔、インドの大学者であるアティーシャがチベットに来られました。なぜアティーシャがチベットに来たかというと、ターラー菩薩が、「あなたはチベットに行って、仏教の教えを広めなさい。」というお告げをなさったからです。チベットの人々は、アティーシャというとても有名な大学者が来られるのだから、さぞや秘密の教えを説いてくれるのだろうと思ってとても期待していました。ところがアティーシャは、ひたすら帰依の教えと因果の教えのみを説かれました。なぜならば、帰依と因果が、仏教で一番大切な教えだからです。それでアティーシャは別名、「帰依のラマ」や「因果のラマ」と呼ばれるようになりました。

仏教の初心者は、帰依に加え、まず、仏教の基本的な考え方を理解することが大切です。特に、1)輪廻、2)カルマと因果、3)無常の三つは、仏教においてとても大切な概念ですので、それらについて、よく理解するよう努めてください。もし、ただ外の物質的な生活のみに目が眩んでしまったならば、仏教的な考えは頭の中に入ってはきませんが、この三つを念頭において修行すれば、仏教が役に立つはずです。

その昔、アティーシャをチベットに招聘した施主がいました。その人はとてもお金持ちで世俗的なことしか興味がなく、カルマや因果、輪廻や来世、無常といったことに全く興味を持っていませんでした。しかし、アティーシャが神通力でお茶を飲もうとしていたその人に幻をみせたのです。商売をしようと船に沢山の商品を積んで海をわたっている最中に、嵐にあって船が沈んでしまい、必死で泳ぐうちに、どこかの島にたどり着いた。その島には金銀財宝があり、美女にもめぐりあった。その美女とめでたく結婚し、かわいい子供も一人生まれた。とてもかわいい子供だったが、病死してしまい、とても悲しんだ。その後、二人目の子供が生まれ、かわいがっていたら、その子も病死してしまい、また苦しみを味わった。三番目の子供も病死、そのうち、美女だった妻も老いて、髪の毛はまっ白になり、体から悪臭が漂うような老婆に。気がついてみたら、自分もすっかり老いさらばえて、人生が幻のように過ぎ去っていた。それでようやく、人生とは苦しみそのものであることに気づき、アティーシャ先生の言われたとおり、若い時から、仏教の修行をしておくのだったと、いたく後悔して、目からほろほろ涙を流した。はっと気づくと、目の前にお茶があり、そのお茶がまだ冷めてなかった・・・・。その幻を見てから、その人は、仏教の教えは真実だということを理解して、仏教徒になったということです。

<帰依の瞑想法>

<帰依文(きえもん)>
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ナモ・グルぺ (ラマに帰依します)
ナモ・ブッダヤ (仏に帰依します)
ナモ・ダルマヤ (法に帰依します)
ナモ・サンガヤ (僧に帰依します)
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瞑想を行う際、必ずしも、決められた尊格を観想しなくてもよいということは特記すべき点です。例えば後述するミクツェマの瞑想法を行う際、頭のうえに観想するのは、弥勒菩薩でなく、釈尊でもよいのです。

頭頂に釈尊のお姿を観想し、四句の帰依文を唱え、釈尊から白い甘露が滴り落ち、私たちの心の中に染み込んでいた怒り、貪り、無知といった煩悩が浄化されると念じます。これは、病や短命の運命を取り除くのにも大きな効果があります。

前世、前々世において起こした怒り、貪り、無知などの煩悩は、習気(影響力)となって心の中に残っています。さらに今生においても、その影響力を取り除くどころか、さまざまな煩悩を起こしているのが私たちなのです。これこそが私たちの闘うべき相手、真の敵です。

煩悩の中でも特に強いものが「我」「自分」への囚われです。私たちはいつも、「自分」をこよなく大切に思い、自分を愛しく思い、いつも「私」あるいは「私が-」を中心に据え、それ以外のものはどうでもよいと思ってしまいがちです。悟りに至るためには、この「私」への囚われである我執を取り除かなくてはならないのです。

帰依文を唱え、「いつの日か、怒り、貪り、無知をなくし、仏の境地に至って、一切衆生を苦しみから救い出せますように」と念じながら、瞑想してみてください。

「心の中に巣くっている怒り、貪り、無知などの煩悩は、体を蝕む毒のようなもの。早くこの毒を取り除かなければ決して幸福は得られない。」と心の中で思います。そして、それを取り除くための方便を説かれた釈尊を自分の頭頂に観想し、釈尊から甘露が滴り落ちて、自分の心の中の怒り、貪り、無知などの煩悩を洗い流していくと観想します。甘露は煩悩という毒をとりのぞく薬のようなものです。

帰依文を唱え、心の煩悩が浄化されたなら、頭頂に観想していた釈尊が降りてきて、自分の心の本質に溶け込み、不二の状態となった、つまり自分自身が釈尊そのものになったと観想します。

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